債務貨幣による国盗り
明治元年に金札が発行されました。ところがその直後、新貨条例というのをつくり、政府が両を円という単位に変えました。1両が1円と交換される比率に変えたのです。その翌年に国立銀行条例を発行し、民間銀行に貨幣発行権を付与しました。これにもとづいてその後の3年間のうちに、第百五十三銀行まで民間銀行が次々と設立されました。今でも十六銀行、七十七銀行、百五銀行などといった数字がついたナンバー銀行がありますよね、当時のナンバーを現在も維持しているわけです。
政府が発行した太政官札を民間銀行が交換してもよろしい。政府は民間銀行に借用書を発行し、銀行はその借用証書をもとに銀行券を発行してもよろしいというように制度を変えてしまいました。ところがそれだけではおさまらず、10年後の1882年に日本銀行をつくって民間銀行が貨幣を発行することを禁止することにしました。日本銀行は、太政官札という公共貨幣を債務貨幣へと変えた元凶です。にもかかわらず図のように、国民は日本銀行の誕生を祝ったのです。
これが明治政府の国盗り物語だと思っています。
1%による国盗り
世界に目を転じると、イングランド銀行は1844年に条例をつくって、それまでさまざまな民間銀行が独自の貨幣を発行していたのを禁止し、イングランド銀行のみが貨幣を発行できるようにしました。それと同じようなことをやったのがフランス銀行です。
日本の松方正義はフランスに行き、その中央銀行システムを導入し、日本銀行をつくりました。1848年のフランス銀行の独占的銀行券発行から35年後に日本銀行がつくられたわけです。このように、どんどん世界が債務貨幣の支配下に入っていきました。
遅れてきたのがアメリカ連邦準備制度で、1913年に中央銀行ができるわけです。これも民間銀行です。このように1%による国盗りが世界中でおきてきて、大きな歴史の転換がこの時期に始まったとも言えます。
アメリカの国盗り物語
アメリカの国盗り物語がどうやって始まったのか見てみます。これを見ないと日本の変化も見えにくいのです。自由をもとめて人々はメイフラワー号でアメリカ大陸までやって来て、13州に移り住んで経済活動を始めました。困ったことに、どんどん生産が増えているのにもかかわらずお金が足りないという問題に直面しました。そこで建国の父と呼ばれるベンジャミン・フランクリンは、印刷業をやっていたこともあり、13州で使える大陸通貨 (Continental Currency) というものを発行しました。小さな額のお金ですが、流通し始めると、13州は本国イギリスと比しても負けないほどめざましい経済発展を遂げるようになるわけです。これがアメリカの公共貨幣の始まりです。
このようにアメリカの建国(国生み)も公共貨幣から始まったということを押さえておいてください。これが気に入らなかったのは本国イギリスです。贋金をつくり、インフレを起こそうという工作を行ったり、大々的に大陸通貨の使用を禁止するわけです。その途端に13州の経済が停滞しました。それに怒って自分たちの通貨を発行するんだと立ち上がったのがアメリカ独立戦争です。独立戦争の大義は、自分たちに貨幣を発行する権利をよこせと、そういうことだったのです。このことをほとんどの教科書では教えていません。ボストン茶会という事件で、輸入した茶に本国イギリスは税金をかけるなと立ち上がったのが独立戦争となったと一般にいわれていますが、そうではない、公共貨幣の発行権をイギリスが禁止したから立ち上がったのです。イギリスは巧妙で、アメリカ独立後15年目にして第一合衆国銀行という民間の中央銀行をつくりました。20年という期限が切れたので、一旦消滅したのですが、その5年後に再び第二合衆国銀行をつくりました。このように執拗にアメリカに民間の中央銀行をつくらせようとしたのです。その度にアメリカ人は立ち上がったというのがアメリカの歴史です。私たちはこのアメリカの建国の歴史から学ぶ必要があります。第二合衆国銀行の20年期限が切れる直前、これを継続しようとした国際銀行家グループに対して立ち上がったのが第7代大統領アンドリュー・ジャクソンです。ところがその直前に銃弾を2発撃ち込まれるという暗殺未遂が起こります。幸い、弾が外れて命は助かりました。
それでも中央銀行を作ろうとする国際銀行家グループはあきらめませんでした。南北戦争が勃発し、北部の資金が不足したために、リンカーン大統領は政府が発行するお金をつくりました。これが紙幣の裏が緑のお金、グリーンバックと呼ばれる公共貨幣です。アメリカ独立以来始めて公共貨幣を発行したのです。南北戦争が終結した直後、リンカーン大統領は暗殺されました。そして1913年にアメリカ連邦準備制度、100%民間所有の中央銀行が設立されるわけです。これでアメリカの国盗り物語は完成しました。
中央銀行が民間になるとバブルや不況、失業等さまざまなことが起こる、その歴史を我々は経験してきました。ところが、この民間所有の連邦準備制度に少しでも触れるとたちまち地位を追われるということで、この話はタブーとされてしまいました。ほとんどの人はこの連邦準備制度について、語ろうとしなくなったわけです。その後米国で発行された紙幣はすべてにFEDERAL RESERVE NOTE(連邦準備銀行券)、日本でいう日本銀行券と記載されています。連邦準備制度がつくったお金だというわけですね。これに果敢に挑戦し、アメリカ政府が公共貨幣を発行するようにと指令したのがケネディ大統領ですね。同じ5ドル札ですが、UNITED STATES NOTE(合衆国券) と記載し、アメリカ政府が発行したお金だと変えたのです。ケネディ大統領はこのようにもう一度、公共貨幣に切り替えようとしたのです。しかし彼も1963年に暗殺されてしまいます。それ以降、この債務貨幣に挑戦する大統領は誰もでてきませんでした。
日本はアメリカの属国だと言う人がいますが、アメリカ自身も乗っ取られているのです。アメリカを支配している人たちに日本も乗っ取られているのです。
そうこうしているうちにトランプ大統領が誕生しました。この写真はホワイトハウスの彼の執務室ですが、まず最初に彼が何をしたかのというと、ある大統領の肖像画を新たに掲げました。この行動にはメッセージが込められています。肖像画の主は、20ドル札にも掲載されている、暗殺未遂にあいながらもあの第二合衆国銀行を阻止した勇気あるアンドリュー・ジャクソン大統領です。見る人が見たら分かるようなメッセージが込められているのです。トランプ大統領はトランプタワーの執務室にはケネディ大統領の写真も掲げています。
戦後70年続いた北朝鮮の軍事独裁体制の中、つい先日、シンガポールで初めての米朝首脳会談が行われました。メディアの99%以上は債務貨幣の支持者ですから、そうしたトランプ大統領をよく言うはずがありません。日本でもトランプ大統領は、気まぐれで人種差別的と批判を浴びています。私はそうは思いません。彼こそアメリカを取り戻そうとしている大統領です。個人的な解釈ですが、期待しています。
日本でも国を取り戻すのだという意気込みが必要です。
それがこのフォーラムの目的です。
このようにアメリカの歴史を学ぶと、日本の歴史も正しく見えてきます。太政官札という公共貨幣をまず最初に一方的に乗っ取ったのが国立銀行条例ですが、この条例を誰が持ち込んだのか。リンカーン大統領暗殺の一年前、1864年伊藤博文が渡米し、アメリカの国立銀行条例を持ち込んで、民間銀行が銀行券を発行できるようにしたのです。その後間もなくこの条例は廃止され、日本銀行条例が制定され、銀行券を独占的に発行する日本銀行が設立されるわけです。不思議に思うのは、国立銀行条例を持ち込んだ伊藤博文が、その時になぜ日本銀行の設立に抵抗しなかったのかということです。自分が持ち込んだ条例が切り替えられても、なぜ何もいわなかったのかということです。明治維新の悲しい歴史の1ページです。
この国盗り物語は今も続いています。2006年12月、フセイン大統領が殺されました。これも独自の公共貨幣を発行しようという意図があったためです。リビアのカダフィ大統領は、アフリカ独自の銀行を作ろうと主導して暗殺されたと言われています。
債務貨幣システムに歯向かおうとする人々に対していつでも危険が迫っています。しかし私たちは恐れる必要はありません。公共貨幣の理論がネットを通じて共有され始めたので、これからはあまりリスクを伴わないで新しい国生みをすることができる時代が到来しました。この流れは誰も止められません。ここまでが銀行券の発行にかかわるお話です。
債務貨幣のシステムデザイン欠陥 (System Design Failures)に続く⇒
~「お金が変われば世界が変わる!公共貨幣で新国生みトークンを創ろう 2018年」より~
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